ルフレーヴの今日の名声を築いた名醸造長ピエール・モレの ネゴシアン部門

ドメーヌ・ピエール・モレとモレ・ブランの二つを高水準で兼業し、ラフォンやコシュ・デュリと並ぶムルソーの偉大な造り手

   【モレ・ブラン】

    〜Morey Blanc〜

 コント・ラフォンやコシュ・デュリーと並ぶ、偉大なムルソーの造り手がピエール・モレです。一族の祖は、シャサーニュ・モンラッシェ出身のアレクシス・モレでフランス革命まっただ中の1793年にムルソーにやってきて、そこでミヨ家の令嬢と結婚したことが始まりです。

 アレクシスには31人の孫がいたため、ピエールの父、オーギュストが相続できたのは凡庸な畑が少しだけでしたが、1935年にドメーヌ・デ・コント・ラフォンのメタイエ(収穫の一部を受け取る小作人)の一人となり、分益耕作契約を結ぶことで逆境を跳ね返し、1971年からピエールがそれを引き継ぐようになりました。

 コント・ラフォンはムルソーの一級畑や特級モンラッシェなど素晴らしい畑をもっていましたが、代々のオーナーはつねに他の仕事をもち、畑作業は小作人に任せており、単なる大地主の存在でした。ところが現当主のドミニク・ラフォンがラフォン家で初めてのヴィニュロン(栽培醸造家)になると、折半耕作の契約期間を延長せず、ラフォン家のすべての畑を自ら 耕作することを宣言したことで、1986年から1991年にかけてピエール・モレは多くの畑を失ってしまうことになりました。

 この辺りの事情は、あの有名なブルゴーニュワインの神様故アンリ・ジャイエ氏が、大地主メオ・カミュゼの現在の当主ジャン・ニコラ・メオ氏の代になって、自ら栽培醸造家となったため、リシュブール等を造れなくなったことと同じで、ブルゴーニュではよくある話ですが、多くの小作人にとっては大変辛い出来事でした。

 しかし、ピエール・モレの手腕に感銘を受けていた、ピュリニー・モンラッシェの大ドメーヌであるルフレーヴは、引退が決まっているそれまでの醸造長のジャン・ヴィロに代わって、ピエールを招聘したのです。

 こうして彼は、1988年〜2007年までの20年間にドメーヌ・ルフレーヴの醸造長を勤め、この間にルフレーヴを世界一の白ワイン生産者として現在の揺るぎない地位を築きました。その一方で、自身の小さなドメーヌを運営、さらにラフォンの畑返却による利益減少の埋め合わせとして、1992年にはネゴス・ブランドの「モレ・ブラン」を設立し、二足のわらじならぬ三足のわらじを履くことになったのです。

 ルフレーヴの醸造長に就いてから20年後の2008年、ドメーヌ・ピエール・モレとモレ・ブランの仕事に集中するためルフレーヴから離れ、娘のアンヌを共同経営者に迎えて、父娘で11haの畑を耕作し、同時にモレ・ブランを経営していますが、葡萄畑ではルフレーヴと同様に1993年から有機農法に切り替え、1998年以降ビオディナミに転換しています。

 参考までに、ピエール・モレは、白ワインの生産地ムルソーの造り手であることから、名称の「ブラン(Blanc)」は、「白ワイン」を意味していると思われがちですが、この「ブラン」は奥様の旧姓だそうです。

 ドメーヌとネゴスの両方を運営する造り手のワインは、ドメーヌを「主」、ネゴスを「従」ととらえられがちですが、ピエール・モレの場合はそれにあたらず、ネゴスの葡萄区画でも自ら畑仕事をする等ドメーヌ同様のケアがとられており、モレ・ブランは、「ドメーヌ的ネゴシアン」と評価されています。

 従って、たとえば村名ムルソー同士をブラインドで試飲したとしても、その葡萄が栽培された区画による違いはともかく、品質的な優劣を感じることはないと言われるほどです。

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