【シャトー・データ】
アペラシオン (AOC) |
マルゴー |
格付け | メドック第一級 |
年平均生産量 | グラン・ヴァンのシャトー・マルゴーは約15万本 |
所有する畑の面積 | 赤ワイン用畑:約80ha 白ワイン用畑:12ha |
主な葡萄品種の作付割合 | カベルネ・ソーヴィニヨン75%、メルロー20%、カベルネ・フラン&プティベルド5% |
所有者 | コリンヌ・メンツェロプーロス |
【シャトーの歴史・変遷・現状】
≪世界中にその名前を知られるシャトー・マルゴー≫
「ワインの女王」と称えられ、五大シャトーの中で「最もエレガントで女性的」と言われ、美しくルビー色に輝く「ボルドーの宝石」とも形容されるシャトーマルゴー。
エチケットに描かれたシンボルとなっている壮麗な城館、名前の響き、その全てがエレガントでロマンチックで、世界中にその名前は知れ渡っています。
特に日本では、ワイン愛好家ではない人でもシャトー・マルゴーの名前は知っており、恐らく日本で一番有名で、憧れのワインと言えるでしょう。 1855年にパリで開催された万国博覧会でボルドーワインを展示する 際に、ナポレオン3世の命令に従い、ボルドー商工会議所が中心となって、それまでの取引価格 と評判をもとに、メドック地区とソーテルヌ地区のすぐれたワインを格付けとして発表しましたが、シャトー・マルゴーはラフィット、ラトゥールに次いで一級の第三位にランクされます。
≪シャトー・マルゴーを愛した有名人たち≫
シャトー・マルゴーを愛好した有名人は非常に多く、それだけに多くの逸話が残っています。
まず、アーネスト・ヘミングウェイ。この大作家は、孫娘が「シャトー・マルゴーのように魅力的な女性に育つように」と願って、”マーゴ”(マルゴーの英語読み)と名づけたほどです。
次にシャトー・マルゴーを毎日のように愛飲したイギリス初代大統領ロバート・ウォーポール、第三代アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソン等の政治家、パリの有名レストラン「タイユバン」で、オールドヴィンテージのマルゴーを注文したオーソン・ウェルズやチャーリー・チャップリン等の名優。
更にユニークな話は、マルクスとの共著「共産党宣言」で有名な社会学者のエンゲルスで、「あなたにとっての幸せは?」と聞かれ「シャトー・マルゴー1848年」と答えたとか。
≪ボルドー・ワインがフランス宮廷へ≫
シャトー・ラフィットが、ルイ15世の愛妾ポンパドール夫人がロマネ・コンティの畑の争奪戦に敗れたことを契機にフランス宮廷に持ち込まれた逸話も有名ですが、シャトー・マルゴーもまた、ポンパドール夫人死後の次の愛妾デュ・バリー夫人により、フランス宮廷に持ち込まれ、貴族階級に広まって行きました。
日本でシャトー・マルゴーが一般にも広く知られることになったきっかけは、渡辺淳一の小説「失楽園」の映画のラストシーンで登場したことでしょう。
≪シャトー・マルゴーの全盛時代≫
このように今では世界中にその名を知らぬ人もないほどの名声を誇るシャトー・マルゴーですが、他の一級シャトーと同じく長い歴史の中で次のような幾多の苦難や変遷を経て来ています。
シャトー・マルゴーが歴史上最初に文献に登場するのは12世紀。当時は「ラ・モット・ド・マルゴー」の名で呼ばれていた農園でした。14世紀から15世紀半ばまでの百年戦争の頃、ボルドーを中心とするアキテーヌ地域はイングランド王領で、リチャード1世は、ボルドーワインを愛飲していました。
この間シャトー・マルゴーは複数の貴族の所有になりますが、転機を迎えるのは、1570年代にピエール・ド・レストナックという貴族が所有者になった時です。
メドックがワインの産地として発展すると予測したレストナックは、16世紀後半にかけて葡萄畑を増やし、ワインの生産に力を入れ現在のシャトーの基礎を築いたのです。
そしてルイ15世の治世、ラフィットを愛飲した公妾ポンパドゥール夫人が1764年に死去すると、その次の公妾デュ・バリー夫人はラフィットに代って、シャトー・マルゴーを宮廷に持ち込む等、全盛時代を迎えます。
≪苦難と変遷≫
18世紀末期、シャトーは大富豪ジョゼフ・ド・フュメルと娘のマリー・ルイーズの所有となりますが、フランス革命が勃発し、二人はギロチン台の露と消え、シャトーは革命政府に没収されます。
1801年、シャトーはド・ラ・コロニラ侯爵の手に渡ります。ド・ラ・コロニラ伯爵は当時一流の建築家ルイ・コンブに依頼し、エチケットの絵柄にもなっている壮麗なギリシア神殿風のシャトーの建物を1810年に完成させました。
有名な1855年のメドックの格付けの時の所有者は、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后ウジェニーの侍女も務めたスコットランド人女性のエミリー・マクドネルでした。この時代にシャトー・マルゴーを始めとするボルドーワインは黄金時代を迎えますが、エミリー・マクドネルは、1870年のナポレオン3世の失脚により、ウジェニー皇后と共にイギリスへ亡命してしまいます。
1934年、シャトーはボルドーのネゴシアンであるジネステ家の所有となり、当初はセカンドラベルを導入したり、葡萄畑を拡大したり、醸造設備への投資にも熱心に取り組みます。しかし、1960年代から1970年代にかけてボルドーワインの価格が暴落し、資金的に余裕のなかった同家はシャトー・マルゴーを大増産して現金化を図りましたが、この年代のシャトー・マルゴーの殆どのヴィンテージが、マルゴー村の隣人で格付け三級のシャトー・パルメより劣るとして低評価され、その名声を大きく落としてしまいました。
こうしてジネステ家はワイン造りへの情熱を喪失し、シャトーを手放すことになっていきます。
≪シャトー・マルゴーの復活≫
1977年にジネステ家からシャトーを買い取ったのはギリシャ人の実業家アンドレ・メンツェロプーロス氏でした。彼は即座に畑や醸造施設に多額の資金をつぎ込むと同時にボルドー大学の醸造学者エミール・ペイノーを技術顧問に迎え、瞬く間にシャトー・マルゴーの名声を取り戻します。
人気漫画「神の雫」第6巻で、シャトー・マルゴーの1970年と1978年ヴィンテージを同時に飲み比べる場面がありますが、”凡作の1970年”と”秀逸な1978年”の差がジネステ家時代とメンツェロープーロス家時代の経営者と醸造責任者の力量の差に起因するとして描かれています。この挿話は優れたワインを造るには、天(気候)、地(テロワール)、人(経営姿勢と葡萄栽培・醸造技術)の最大限の活用が必要ということを示しています。
≪シャトー・マルゴーの現状≫
メンツェロプーロス氏は1980年に亡くなりますが、現在、シャトーは娘のコリンヌ夫妻と総支配人ポール・ポンタリエの手によって運営されています。
五大シャトーの中で最もエレガントで女性的と評されるシャトー・マルゴーですが、1997年以降次のような大きな変化があります。
〇グランヴァン・シャトー・マルゴーにおけるカベルネソーヴィヨンの比率を80-85%にアップ。
〇低収量とより厳しい選別によりグランヴァンの生産量は以前の半分以下に減少。
〇1997年よりサードラベルを導入。シャトー・マルゴーとセカンドのパヴィヨン・ルージュの品質向上。
支配人のポール・ポンタリエ氏がシャトー・マルゴーを「ベルベットの手袋のなかの鋼鉄の拳」という表現をしていることからも分かるように、シャトー・マルゴーが目指す、エレガンスとは、強さを秘めたしなやかさと言うことができます。
このように、幾多の苦難の時代を乗り越え、現在も益々その品質を向上させ、評価を高めているワイン。それがシャトー・マルゴーです。