【ヴージョ葡萄畑地図】

 ブルゴーニュ・ワインのシンボル「シャトー・ドュ・クロ・ド・ヴージョ」(クロ・ド・ヴージョ城)で有名なヴージョ村は、ブルゴーニュ・ワインの基礎を築いた歴史ある村です。

 AOCとしてのヴージョの特徴はなんと言っても、村唯一の特級畑クロ・ド・ヴージョが村の葡萄畑のほとんどを占めることです。村の葡萄畑の全作付面積は65.86haですが、その内クロ・ド・ヴージョが50.96ha(77%)を占めています。反面、村名格畑はわずか3.22haに過ぎないことから、ヴージョは村名アペラシオンがコートドールで最少の村としても知られます。


  大変不幸なことに、この50.96haの広い面積に78名もの所有者が存在することが、由緒ある歴史を持つ特級クロ・ド・ヴージョの評価を過小かつ不遇なものにしています。

 クロ・ド・ヴージョの細分化の歴史をみると、フランス革命に際し、シトー派修道院の手を離れましたが、1889年まではジュリアン・ジェーン・ウヴラールとその後継者による単独所有の畑でした。
 1889年にブルゴーニュのネゴシアン6社に売却され、その後すぐに所有者が15名となります。この中で最大面積の所有者であったのがレオンス・ボッケで、彼はクロ・ド・ヴージョの建物と共に15haの畑を持っていました。
 第一次世界大戦後の1920年にこのボッケが所有していた15haが売りに出され、これによりクロ・ド・ヴージョの所有者は一挙に40人に増えます。この時、ドメーヌ・メオ・カミュゼ初代当主エティエンヌ・カミュゼがクロ・ド・ヴージョ城とその周辺の畑を入手したのです。
 これ以降、フランス特有の相続法の関係から婚姻や死去に伴う畑の分割・細分化が進み、今日の80名に近い所有者が存在するまでに至っています。

 1787年にフランスのワイン畑を視察し、格付けを記した、かのトーマス・ジェファーソン(アメリカ独立宣言の起草者で、第3代米国大統領、当時は駐フランス公使)によれば、当時ブルゴーニュで最高のワインは、シャンベルタン、ロマネ(今のロマネ・コンティ)、モンラッシェそしてクロ・ド・ヴージョであり、これら四つのワインの価格は同じだったそうです。
 このことから考えても、現状ではクロ・ド・ヴージョはその面積の広さと多数の所有者ゆえに明らかに過小評価されており、エトワール店長としては、往年の輝きを取り戻して欲しいと願っています。


 下にヴージョ村の葡萄畑の概略地図を掲載したのでご覧ください。この地図は、当店店長が、ブルゴーニュ大全等の資料を基にエクセルで描画したオリジナルの地図なので、縮尺(畑の大きさ)は正確ではありませんが、クロ・ド・ヴージョの小区画や主要所有者の保有区画、更にヴージョ周辺の村の葡萄畑の位置関係の理解の参考になると思います。



 特級畑クロ・ド・ヴージョは、その面積の広さからブルゴーニュ最大のグラン・クリュですが、上の地図を見て直ぐに分かる通り、畑の上部はシャンボール・ミュジニーの珠玉の特級畑「ミュジニー」やフラジェ・エシェゾー村の特級畑「グラン・エシェゾー」に隣接しているのに対し、畑の下部は国道74号線にまで達しており、隣り村の村名格畑と同じ標高・立地条件にあります。
 従って、クロ・ド・ヴージョのワインは均一ではなく、しかも転売や相続などによる畑の細分化で生産者も多数であることから、まさに「玉石混交の特級ワイン」となっているのです。


 ロマネ・コンティを筆頭とする幾つかのモノポール(単独占有畑)を除き、通常一つの畑に複数の生産者が存在するブルゴーニュでは畑と生産者の組合せが重要ですが、ここクロ・ド・ヴージョにおいては、特に畑の区画位置と生産者が品質の決定要因となります。その意味で、クロ・ド・ヴージョは最もブルゴーニュらしいワインと言えるのではないでしょうか。

 1831年の資料によると、クロ・ド・ヴージョは上部の『水はけ良好な石灰質の土壌』が「教皇の畑」、中央の 『砂利の多い一帯』は「王の畑」、下部の『粘土質の一帯』が「修道士の畑」として扱われていました。


 当然のことですが、特級に相応しいワインは上部の畑から造られますが、下部の畑も同じ特級クロ・ド・ヴージョを名乗れる上に、生産者の技量も加わるので、期待外れのワインも多いことから消費者にとっては非常に選択が難しく、これが約1000年もの由緒ある歴史を有する偉大なクロ・ド・ヴージョに対する正当な評価を妨げているのではないかと思います。

 古来よりクロ・ド・ヴージョの畑は小区画の位置により品質が異なるとされており、その小区画が示された古地図も残存しています。下の地図は、上に掲載したクロ・ド・ヴージョの葡萄畑地図の上に、古地図に示されている小区画の位置を重ねたものです。どの所有者が、どこの小区画に畑を持っているのか二つの地図を見比べて下さい。
 もっとも、この小区画名は、数の単位や広さの単位、さらに土地の高低の表現がほとんどであり、幾つかを除いて、あまり魅力的なネーミングとは言えません。



 
 多くの生産者はこの小区画名をエチケットにつけることなく、単に「クロ・ド・ヴージョ」として造っているのがほとんどで、これらの小区画名は捨てられたと同然の状態です。この中で例外と言える小区画は、ドメーヌ・アンヌ・グロ及びグレート・ヴィンテージの2009年限定でドメーヌ・メオ・カミュゼが付けた「グラン・モーペルテュイ」とグロ・フレール・エ・スールの「ミュジニ」の二つだけです。


 グラン・モーペルテュイは畑の上部で隣のフラジェ・エシェゾー村の特級畑グラン・エシェゾーに隣接するヴージョ最高と言われる小区画、またミュジニは、同じく畑の上部で、シャンボール村の珠玉の特級畑「ミュジニー」に隣接する優良な小区画であるだけに、優良生産者がこの小区画名をワインのエチケットにつけることで、他の多くのクロ・ド・ヴージョとの差別化を図り、クロ・ド・ヴージョの輝きを一日も早く取り戻して欲しいとブルゴーニュ・ラヴァーとして心から願っています。


 上の二つの地図により畑の区画位置と生産者の組合せの観点から優良なクロ・ド・ヴージョを探すと、第一に挙げられるのがドメーヌ・メオ・カミュゼです。
 
 メオ家のヴージョの畑面積は合計で3.03haですが、その中心となる区画の位置は、クロ・ド・ヴージョ城に隣接する最上の区画の一つシウル[Chioures]のもので、初代エティエンヌ・カミュゼが1920年にクロ・ド・ヴージョ城と一緒に手に入れたものです。
 メオ・カミュゼは、これ以外にも特級畑グラン・エシェゾーと接するヴージョ最高の優良小区画とされるグラン・モーペルテュイ[Grand Maupertui]内等にも分散して少量の畑を所有しており、これらをブレンドして最上級のクロ・ド・ヴージョを造っています。


クロ・ド・ヴージョ城正面から左手に広がるメオ家の葡萄畑「小区画シウル」

 ヴージョにはこれまでヴージョに本拠を置く最高峰の生産者は見あたりませんでした。ところが、ここにきてヴージョに本拠を置く、人気・評価とも急上昇のスター・ドメーヌがあります。その名は、ドメーヌ・アラン・ユドロ・ノエラで、アンリ・ジャイエと比肩された伝説の造り手シャルル・ノエラ(1988年に畑をルロワに売却し、名称は消滅)の偉大なテロワールとワイン造りの情熱を受け継いだドメーヌで、現当主は創設者アラン・ユドロの孫にあたる1988年生まれのシャルル・ヴァン・カネイ氏です。

  ドメーヌ・アラン・ユドロ・ノエラは、シャンボール・ミュジニー生まれのアラン・ユドロ氏とヴォーヌ・ロマネに本拠を置いた名門ドメーヌ・シャルル・ノエラの孫娘オディル氏が結婚後1964年にヴージョで創設したドメーヌです。その後1978年にオディル夫人が祖父シャルル・ノエラの所有畑の4分の1を受け継ぎ、ヴォーヌ・ロマネからシャンボール・ミュジニー、ニュイ・サン・ジョルジュにかけて一挙に珠玉の畑を所有することとなります。


  ここヴージョにおいても、特級畑クロ・ド・ヴージョの中の区画はクロ・ド・ヴージョ城裏手でルロワと隣接するガレンヌの小区画とメオ・カミュゼのシウルと隣接する小区画内に合わせて0.69ha、シャンボールの銘醸畑ミュジニー及びレザムルーズと隣接する貴重な一級畑プティ・ヴージョに0.53haと名門ドメーヌならではの秀逸な畑を所有しています。
 
 上述したように、シャルル・ノエラは全盛期には、ブルゴーニュの神様アンリ・ジャイエと比較されるほどの名ドメーヌでしたが、1988年ドメーヌ・ルロワに畑を売却したため、シャルル・ノエラの名前は消失し、現在はそれらの畑からはドメーヌ・ルロワの珠玉のワインが生み出されています。

  今や伝説となった幻のドメーヌ・シャルル・ノエラの畑は、ドメーヌ・ルロワとドメーヌ・アラン・ユドロ・ノエラに継承されたため、珠玉の特級畑(リシュブール、ロマネ・サン・ヴィヴァン、クロ・ド・ヴージョ)に所有する両者の区画は相互に近接した場所に位置しています。

  参考までに、ロマネ・サン・ヴィヴァン及びクロ・ド・ヴージョともルロワとアラン・ユドロ・ノエラの区画に隣接してジャン・ジャック・コンフュロンが所有する区画がありますが、この畑もシャルル・ノエラのもう一人の孫娘が嫁いだことによりコンフュロン家が相続したもので、元々シャルル・ノエラの所有する一つの畑だったためです。 

 考えてみると、畑のテロワールと造り手の技量によって玉石混交のクロ・ド・ヴージョの中で、真のクロ・ド・ヴージョを探すことこそがブルゴーニュ・ラヴァーにとって腕の見せ所であり、喜びではないでしょうか。また、ワイン愛好家として嬉しいことは、現在のクロ・ド・ヴージョはやや地味な存在のため、上述の最上級のものでも他AOCの特級ワインと比べてリーズナブルな価格で入手できることです。
 ドメーヌ・メオ・カミュゼ
とドメーヌ・アラン・ユドロ・ノエラが造る極上のクロ・ド・ヴージョ、是非お勧めしたい一本です。

←【メオ・カミュゼの造る極上のクロ・ド・ヴージョはこちらからどうぞ】

 以下は余談ですが、メオ・カミュゼがヴージョ最高の優良小区画とされるグラン・モーペルテュイ[Grand Maupertui]に所有する約0.2haほどの葡萄畑には、少し説明が必要です。
 長くなりますが、興味のある方は是非お読みください。


 実はこの畑は、大地主のメオ家がまだドメーヌ元詰めを行っていなかった1966年に、ブルゴーニュの神様「アンリ・ジャイエ」と親交のあった優れた葡萄栽培小作人ジャン・タルディーにメタヤージュ契約(分益耕作契約)を結んでいたものです。ちょうどアンリ・ジャイエがメオ家からメタヤージュ契約をして造っていたリシュブールと全く同じ形態です。

 ですから、この区画での畑の耕作、葡萄の栽培・収穫はジャン・タルディーがすべて行い、メオ・カミュゼは収穫された葡萄の半分を受け取っていました。メオ・カミュゼのクロ・ド・ヴージョは、シウルの区画の葡萄とジャン・タルディの栽培したグラン・モーペルテュイの葡萄をブレンドして造ったものです。
 一方、ジャン・タルディも収穫した葡萄から、ドメーヌ・ジャン・タルディ[Domaine Jean Tardy]の名前で、「クロ・ド・ヴージョ グラン・モーペルテュイ」を造り、リリースしてきました。

 ドメーヌ・メオ・カミュゼは現当主ニコラ・メオ氏がドメーヌを継承した1980年代後半から、メタヤージュ契約を順次解消し、ドメーヌ元詰めをする方向に転換したことから、リシュブールやコルトン等多くの畑が契約期限切れに伴い、メオ家に返還されてきました。これまで愛着をもって世話をしてきた畑と葡萄樹を、契約とはいえ返還という形で奪われる小作農家や家族経営の小ドメーヌの気持ちは察するに余りあるものですが、これが厳しい現実なのです。

 そして、メオ・カミュゼにとって、最後までメタヤージュ契約が残っていたのがこのクロ・ド・ヴージョのグラン・モーペルテュイの区画で、2007年にそのメタヤージュ契約の期間が終了し、この畑もメオ・カミュゼに返還されたのです。
 2007年が最後のヴィンテージとなったドメーヌ・ジャン・タルディの「クロ・ド・ヴージョ グラン・モーペルテュイ」は生産者の技量と優れたテロワールを反映して、ドメーヌの看板ワインとして評判の良いものでしたが、残念ながらもはや「幻のワイン」となってしまいました。


 ただ、返還されたグラン・モーペルテュイは0.2haほどの極小の区画であるため、メオ・カミュゼに帰ってきた2008年ヴィンテージ以降も、グラン・モーペルテュイ単独では仕立てず、従来と同じくシウル等の区画とブレンドしてクロ・ド・ヴージョを造っています。

 唯一の例外が、グレート・ヴィンテージの2009年です。この年は葡萄の出来が非常に良かったことから、メオ・カミュゼは2銘柄のクロ・ド・ヴージョをリリースしました。
 一つは、これまで通りのシウルの葡萄を中心とした「プレ・ル・セリエ= PRÈS LE CELLIER」、もう一つがこの帰ってきた最高区画グラン・モーペルテュイ単独で仕立てた「グラン・モーペルテュイ」です。
この「クロ・ド・ヴージョ グラン・モーペルテュイ2009」は、2009年以降は最新ヴィンテージの2013年まで一度もリリースされておらず、生産本数も少ないことから品質の素晴らしさに加え、稀少ワインとしてとても人気があります。


←【2009年特別キュベのクロ・ド・ヴージョ グラン・モーペルテュイはこちらからどうぞ】

 なお、当ホームページでは日本での雑誌や出版物に表記のとおり、「ヴージョ」でカタカナ表記していますが、フランス語の発音では「ヴジョー」の方が正確です。ご参考までに。


 

【メオ・カミュゼの造る通常年の極上のクロ・ド・ヴージョは
←こちらからどうぞ】

 

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