【ヴォーヌ・ロマネ概要】

 

 ヴォーヌ・ロマネは、「コート・ドールの王冠」あるいは「神に愛された村」の別名を持ち、そこから生み出す素晴らしいワインにより、ブルゴーニュの中で最上のアペラシオンとされています。

 

 その最大の理由は、土壌と日照条件の良さ。村全体が日当たりの良い東南向きで、粘土質と石灰質が混ざった土壌から、凝縮した果実味と、綺麗な酸をもつ葡萄ができるためです。

  下にヴォーヌ・ロマネの葡萄畑の地図の概略を掲載しました。この地図は、ブルゴーニュワイン大全等の関係資料に基づき、店長がエクセルで描画した簡略図ですので、縮尺(畑の大きさ)は正確ではありませんが、ロマネ・コンティを筆頭とする珠玉の畑の位置関係の理解に参考になると思います。

 フランス革命で没収された畑が競売にかけられた結果、ブルゴーニュでは一つのクリマを複数の生産者が所有するケースがほとんどとなりましたが、ヴーヌ・ロマネは競売の影響が他村に比べて少なく、8つの特級畑の内、ロマネ・コンティ、ラ・ターシュ、ラ・ロマネ、ラ・グランド・リュの4つがモノポール(単独所有畑)という特徴があります。

  これら特級畑以外にも、ブルゴーニュの神様アンリ・ジャイエ氏の拓いた伝説の幻の畑「クロ・パラントゥ」や美しい山を意味する「ボーモン」、ラターシュと同格と言われる「レ・ゴーディショ」や「マルコンソール」、ロマネ・サン・ヴィヴァンの一角を占める「レ・クロワ・ラモー」など特級に格上げしてもよいほどの14の珠玉の一級畑があります。

  古来から「ヴォーヌ・ロマネには並みのワインはない」と言われてきたように、「神に愛された村」ヴォーヌ・ロマネのワインは、特級・一級からヴィラージュに至るまでブルゴーニュで最高の品質を誇ります。

【特級畑ロマネ・サン・ヴィヴァン詳細と区画図】

  ここで特級畑ロマネ・サン・ヴィヴァンについて少し詳しくご説明します。 下のロマネ・サン・ヴィヴァンの区画図を中心に描いたヴォーヌ・ロマネ村中心部の葡萄畑地図をご覧ください。この地図は当店店長が「ブルゴーニュワイン大全」等の資料を基にエクセルで描画した概略図ですので、縮尺(畑の広さ)は正確ではありませんが、畑の位置関係の参考になると思います。  

 この葡萄畑地図を見ると分かるように、特級畑ロマネ・サン・ヴィヴァンは、世界最高の畑ロマネ・コンティとリシュブールの真下にある9.43haの平坦な畑で、ロマネ・コンティの生産者として名高いDRC社(ドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティ)の5.29haを筆頭に現在10人の所有者がいます。

 

 「ヴォーヌ・ロマネ村=ロマネ・コンティ」とすぐに連想しがちですが、中世の頃のヴォーヌ・ロマネ一帯は、西暦890年頃に設立されたサン・ヴィヴァン修道院が所有していました。

 特級畑ロマネ・サン・ヴィヴァンは、このサン・ヴィヴァン修道院が12世紀に数度にわたり寄進を受けたものですが、16世紀頃まではワイン造りを伝えたローマ人を意味する「ロマネ」と呼ばれていました。

 

 世界最高の畑ロマネ・コンティは、このロマネ・サン・ヴィヴァンの中にあった一区画[Cloux des cinq journaux]が、1584年に単独で売却・分化され、後に1760年にここを購入したコンティ公の名にちなんでロマネ・コンティとなったもので、歴史的な観点から見ればロマネ・サン・ヴィヴァンが由緒正しい本家の畑と言えるのです。

 

 フランス革命後の1791年、ロマネ・サン・ヴィヴァンはブルゴーニュの大地主マレ・モンジェ家(Marey-Monge)が全区画9.43haを全て所有し、その後少しずつ切り売りしていきますが、それでも1988年までは子孫のネイラン家が9.43haの半分以上を占める5.29haを所有していました。DRC社はネイラン家からこの区画を賃借して特級ロマネ・サン・ヴィヴァンを造っていたのです。

 ところが1988年に相続問題がネイラン家に発生し、高額の相続税を納めるために、この5.29haの区画をこれまで賃貸契約関係にあったDRCに売却することになります。DRCはこの買収資金に充てるため、これまで所有していた特級畑グラン・ゼシェゾーとエシェゾーの一部を売却し資金を捻出、ロマネ・サン・ヴィヴァンを購入したのです。

 

 ご参考までに、DRCが現在自社畑として実際に所有している面積は、グラン・ゼシェゾーは3.116ha、エシェゾーに至っては僅か0.425haに過ぎません。実は1988年にマレ・モンジェ家が所有していたロマネ・サン・ヴィヴァンの購入資金にあてるためにグラン・ゼシェゾーの一部0.445haとエシェゾーの大部分4.24haを売却してしまい、現在は元の畑を新所有者(アシュランス・デュ・クレディ・ミュティエル・ヴィ)から分益耕作をしてDRCのラベルでワインを造り販売しています。

 この経緯を聞くと、DRC社がロマネ・コンティの本家とも言える歴史ある銘醸畑ロマネ・サン・ヴィヴァンをいかに高く評価しているか、またいかに欲しかったかが分かりますね。ですから、DRCのロマネ・サン・ヴィヴァンのボトルのエチケットには、畑の最初の所有者マレ・モンジェ家に敬意を払い、「Marey-Monge」の名が刻まれているのです。

 

 ヴォーヌ・ロマネにある珠玉の特級畑は誰も皆手放さないため、売りに出ることは稀ですが、1988年にドメーヌ・ルロワがシャルル・ノエラを買収したことにより、ロマネ・サン・ヴィヴァンに新たに区画を所有しました。元は一つの畑であったため、シャルル・ノエラの孫にあたるカネイ氏が当主のドメーヌ・アラン・ユドロ・ノエラが相続した区画と近接しています。

 また、1991年にニュイ・サン・ジョルジュにドメーヌの本拠地があるドメーヌ・クロ・ド・ラルロが取得したロマネ・サン・ヴィヴァンの0.25haの区画は道一本を挟んでロマネ・コンティと隣り合う好立地にあります。クロ・ド・ラルロのワインは「プチDRC」と呼ばれ、ヨーロッパで高い人気を誇りますが、ロマネ・コンティの真下に位置するこの畑を所有していることも関係しているのではないでしょうか。

 最近では、2005年にトマ・モワラールのロマネ・サン・ヴィヴァンの0.34haの区画が売りに出されるという大きな出来事がありました。これを購入したのが、モレ・サン・ドニの雄デュジャックとヴォーヌ・ロマネの小規模優良ドメーヌのシルヴァン・カティアールで、それぞれ0.17ha(坪換算で約510坪)づつ購入しました。参考までに、0.17haの面積では、生産されるワイン本数は約600本程度で、非常に稀少なものとなります。

 

 雑学豆知識を一つ。ロマネ・コンティの元となった区画は[Cloux des cinq journaux](クルー・デ・サンク・ジュルノー)であることは前述しましたが、この [journaux]は畑の広さを表す古い単位で[1journaux]は約0.34ha、[ cinq ]はフランス語の数字の「5」です。従って、ロマネ・コンティは、当初は5ジュルノー(約1.7ha)の畑だったのです。

 

 ですから、デュジャックとカティアールが2005年に取得した0.17haのロマネ・サン・ヴィヴァンの区画はトマ・モワラールが所有していた[1journaux](約0.34ha)を二分割したものなのです。ブルゴーニュの醸造家達は誰もがヴォーヌ・ロマネに畑を持ちたがりますが、高名な特級畑が売りにでることは極めて稀なので、相続問題等で売り物がでた場合には、激しい獲得競争が展開されるのです。

【ロマネ・サン・ヴィヴァンの所有者の変遷を更に詳しく】

 現在ロマネ・サン・ヴィヴァンには10名の所有者がいますが、かつてはあのロマネ・コンティも含まれていた歴史あるロマネ・サン・ヴィヴァンの所有に至るまでには幾多の歴史的変遷がございます。ここからは、更に詳しく知りたい方のためにご説明します。

 上述の通り、中世の頃のヴォーヌ・ロマネ一帯は、西暦890年頃に設立されたサン・ヴィヴァン修道院が所有していました。

 特級畑ロマネ・サン・ヴィヴァンの名前が初めて文献に登場するのは1765年ですが、16世紀初頭まではこのサン・ヴィヴァン修道院が12世紀以降数度にわたり畑の寄進を受けて、修道院の所有する畑はワイン造りを伝えたローマ人を意味する「ロマネ」と呼ばれていました。下の地図をご覧下さい。

 上の地図は、1512年当時のヴォーヌ・ロマネ中心部の葡萄畑の古地図で、この時点でサン・ヴィヴァン修道院は、地図の中で灰色の網掛けがしてある次の4つの区画を所有していました。

1.ル・クルー・デ・ヌフ・ジュルノー(Le Cloux des Neuf Journaux)

2.ル・クルー・デュ・モワタン(Le Cloux du Moytant)

3.ル・クルー・デ・キャトル・ジュルノー(Le Cloux des Quatre Journaux)

4.クルー・デ・サンク・ジュルノー(Le Cloux des Cinq Journaux)

 この内、4番目のクルー・デ・サンク・ジュルノーは1584年に割譲されて、独立の畑となり、1651年にはラ・ロマネの名を冠され、1760年にクローネンブール家からブルボン朝のルイ・フランソワ一世(コンティ公)が取得し、ロマネ・コンティとなり、その後幾多の所有者の手を経て現在のDRC社(ド・ヴィレーヌ家とルロワ家の共同経営)所有に至っています。

 上述の1〜3の区画が現在のロマネ・サン・ヴィヴァンの中核となった畑ですが、後に北西(地図左上)の「ヴィーニュ・ア・エティエンヌ・ボグネ(Vigne a Estienne Bognet)」と南東(地図右下)の「ヴィーニュ・ア・ジョアン・ロワ・ド・ルーヴル(Vigne a Jehan Roy de Rouvres)」の区画が編入され、上の地図内で赤線で囲った面積9.44haのロマネ・サン・ヴィヴァンが完成します。

 1789年のフランス革命でロマネ・サン・ヴィヴァンは、政府に没収され、1791年にニコラ=ジョセフ・マレと義理の息子のガスパール・モンジュに売却され、その後約100年に亘って畑の全てはマレ・モンジュ家に所有されてきました。

 ところがブルゴーニュお決まりの相続問題と巨額な相続税の関係から、畑が売却され、新たな買い手にも相続問題が発生し、次のようにどんどん細分化されることになります。

 ○1855年:マレ・モンジェ家が「ヴィーニュ・ア・ジョアン・ロワ・ド・ルーヴル」区画をモワラール家に売却(モワラール家は相続問題でドメーヌが売却される1984年までこの畑を保有します)

 ○1898年:マレ・モンジェ家が「クルー・デ・キャトル・ジュルノー」区画をルイ・ラトゥールに売却

 ○1902年:ルイ・ラトゥールの死後息子ルイ・ラトゥールと妻のマリー・ポワゾにほぼ均等に分割。ルイ・ラトゥールは、現在のルイ・ラトゥール社の所有区画と一致するクロ・デ・キャトル・ジュルノーの北側を、マリー・ポワゾはラ・グランド・リューに面した南側の区画を相続。ポワゾの区画は約0.74ha、ルイ・ラトゥールの区画はやや大きく0.76haでした。

 ○1920年:マレ・モンジェ家が一級のレ・スショに隣接する北側の斜面上部から下部まで縦長(東西方向)に約1.97haの区画をドメーヌ・シャルル・ノエラに売却し、残りの区画(5.29ha)は1966年にDRCに貸し出され、1988年にこの賃貸であった区画はDRCが買い取ります。

 ○1978年:1920年にマレ・モンジュ家からロマネ・サン・ヴィヴァンの区画を購入したシャルル・ノエラには3人の孫がいました。オディール&アンドレ姉妹と、この姉妹の従兄です。1978年ノエラ家の畑が相続された際、オディール・ノエラはアラン・ユドロと結婚して、ヴージョのドメーヌ・ユドロ・ノエラを興していました。このため、アラン・ユドロはノエラ家の区画の一番南側の部分でDRCの区画に隣接する0.48haを1978年に相続しました。ノエラ家の区画の真ん中の区画(ユドロ・ノエラの区画のすぐ北側)は現在ドメーヌ・ジャン=ジャック・コンフュロンによって所有されています。ジャン=ジャック・コンフュロンは、シャルル・ノエラの孫娘のアンドレ・ノエラと結婚していたため、ノエラ家の相続分として0.5haを取得しました。

 ○1984年:ポワゾ家の区画の東側で、ちょうどグロ・フレール・スール家の庭の西側に位置するモワラール家(トマ・モワラール)が所有していた区画(かつての「ヴィーニュ・ア・ジョアン・ロワ・ド・ルーヴル」区画)は、現在3つのドメーヌによって分割所有されています。一番南はロベール・アルヌー・ラショーが1984年にトマ・モワラールから購入した0.35ha区画。アルヌーは1920年代からこの区画でロマネ・サン・ヴィヴァンを造っていましたが、1984年まではモワラールの所有でした。残りの2つの区画はシルヴァン・カティアールとデュジャックが所有している区画です。2つとも0.17haの区画で、元々トマ・モワラールの区画でしたが、トマ・モワラールの区画が相続で分割されて売りに出された際に、カティアールは1984年に、デュジャックは2005年に購入しました。

 ○1988年:シャルル・ノエラが購入した区画の残り0.99haは本家シャルル・ノエラを継いだオディール&アンドレ姉妹の従兄が、1988年にドメーヌ・ルロワにドメーヌを売却したため、ルロワの所有になりました。ルロワの区画はロマネ・サン・ヴィヴァンの中の一番北側で、ヴォーヌ・ロマネ一級レ・スショに隣接しています。従って、旧シャルル・ノエラの区画は、3ドメーヌが分割・所有することになり、北からルロワ、ジャン・ジャック・コンフュロン、アラン・ユドロ・ノエラの順にいずれも斜面上部から下部までを縦長(東西方向)に畝が並んでいます。

 ○1988年:DRC社が1966年から賃貸契約していた5.29haの区画をマレ・モンジェ家の子孫ネイラン家から買収。畑が買収された理由は、巨額な相続税のためで、当時は前所有者の没後一年以内に、評価額の40%を現金で納める必要がありました。DRCはこの巨額の買収資金を捻出するため、所有していたエシェゾーのほとんどとグラン・ゼシェゾーの一部、そして歴史あるクロ・ゴワイヨット等を売却します。参考までに、この時クロ・ゴワイヨットを購入したのがルロワ家の嫡流でマダム・ルロワの甥にあたるアンリ・フレデリック・ロック氏で、これを機にドメーヌ・プリューレ・ロックが誕生することになります。

 ○1990年:ポワゾ家のクロ・デ・キャトル・ジュルノーの区画はドメーヌ・ド・ラルロがルイ・ラトゥールと現在のポワゾの区画の間の0.25haの1区画をポワゾ家から購入したことで二つに分割されます。しかし、ロマネ・コンティのすぐ下に位置する南西の角の区画は現在もポワゾ家によって所有されています。

 ○2005年:1984年にシルヴァン・カティアールに二分割した際の残りの0.17haの区画をトマ・モワラールからドメーヌ・デュジャックが買収・取得。この時ドメーヌ・ド・モンティーユと共同でトマ・モワラールから銘醸畑ヴォーヌ・ロマネ一級オー・マルコンソールも買収・取得します。

 ロマネ・サン・ヴィヴァンは、上述の歴史的経緯により、現在の10名の所有者となっています。このページの上に表示した現在の所有者の区画図と比べてみて下さい。相続と買収により葡萄畑が細分化し、所有者が変わっていく、いかにもブルゴーニュらしい畑です。

 ヴォーヌ・ロマネの二つの別格の偉大な特級畑ロマネ・コンティとラターシュは、DRCのモノポールですから、最高峰生産者がその腕を競い合っているのがこのロマネ・サン・ヴィヴァンやリシュブールと申せます。

 現在ロマネ・サン・ヴィヴァンを所有する10名は全て自分の蔵の名前でロマネ・サン・ヴィヴァンをリリースしていますので、もしこれらを全部ではなくとも、せめて数本でも飲み比べできれば最高の贅沢ですね。また、このような経緯を知るとブルゴーニュにおけるモノポールの商品価値が絶大であることがよく分かりますね。

【ドメーヌ・アラン・ユドロ・ノエラのロマネ・サン・ヴィヴァンはこちらからどうぞ】
【ドメーヌ・デュジャックのロマネ・サン・ヴィヴァンはこちらからどうぞ】
【ドメーヌ・ド・ラルロのロマネ・サン・ヴィヴァンはこちらからどうぞ】
【ドメーヌ・アルヌー・ラショーのロマネ・サン・ヴィヴァンはこちらからどうぞ】
【ドメーヌ・ジャン・ジャック・コンフュロンのロマネ・サン・ヴィヴァンはこちらからどうぞ】
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