世界中のワイン愛好家を虜にするブルゴーニュの女神

 DRCと唯一肩を並べるブルゴーニュ最高のドメーヌ

 【ドメーヌ・ルロワ】

  〜Domaine Leroy〜


 ドメーヌ・ルロワは1988年に旧シャルル・ノエラの地所を買収して、ヴォーヌ・ロマネに設立されましたが、その後もジュヴレのドメーヌ・フィリップ・レミを買収し、下の主要所有畑一覧表の通り、シャンベルタン、リシュブール、ロマネ・サン・ヴィヴァン・ミュジニー等の錚々たる畑を増やしてきました。日本の高島屋も資本参加しており、ドメーヌの株式の1/3を所有しています。

 ドメーヌのオーナーは勿論あの有名なラルー・ビーズ・ルロワ女史(マダム・ルロワ)で、「ワインの個性は土地が決定するもの。ワインは畑で生まれ、生産者はその手助けをするだけ」という考えのもと、畑が持つ個性を最大限に表現するワイン造りを追求し、驚く程の低収量を貫き、ブルゴーニュでも最も早くからビオディナミを導入しました。 また、ブルゴーニュ随一のテイスティング能力の持ち主として知られるマダム・ルロワは、その並はずれたテイスティング能力によって、そのワインをより完璧なものへと昇華させていると言われています。

 美術出版社発行のワイン専門誌「ワイナート」41号(2007年11月発刊)の「特集ヴォーヌ・ロマネ」の中で、下の写真の通り、ドメーヌ・ルロワとラルー・ビーズ・ルロワ氏について4頁に渡って紹介されています。

 ルロワについて一般消費者が戸惑うのは、ルロワには三種類のワインが存在する事でしょう。現在、メゾン・ルロワ、ドメーヌ・ルロワ、ドメーヌ・ドーヴネの三種類があります。この三者の違いはメゾン・ルロワはネゴシアンで、契約農家から買い付けたブドウを醸造してワインを造り、ドメーヌ・ルロワは自社畑のブドウを使うこと。そしてドメーヌ・ドーヴネは、マダム・ルロワの個人所有畑のブドウから造られるものとなっています。

 ワインの外観上の違いは、メゾン・ルロワのキャップ・シールが白色なのに対し、ドメーヌ・ルロワには赤色を使用しているため、愛好家の間では通称「赤キャップ」と呼ばれており、ドメーヌの本拠地がヴォーヌ・ロマネにあるため、エチケットには「Mis en bouteille au Domaine Leroy Vosne-Romanee (Cote-d'Or)」と記されています。

 DRCの共同経営者であったマダム・ルロワが、もう一方の共同経営者のヴィレーヌ家や実姉のポーリーヌ・ロック・ルロワとの確執や意見の相違から、DRCを去り、自らのドメーヌを興すことになったわけですが、非常に気高く、自己主張の強いとされるマダムは、その才能への羨望も含めて、えてして非難の的になることさえあるようですが、ブルゴーニュにおいて、いかに彼女の存在が偉大であるかというのは、現在のドメーヌ・ルロワへの名だたるワイン評論家やワイン愛好家の賛辞を見れば分かるように思います。

 ドメーヌ・ルロワのワインがDRCと比較可能なのは、リシュブールとロマネ・サン・ヴィヴァンだけですが、これまでDRCがうちたてた燦然たる品質に肩を並べ、しのぐほどと言われています。 実際にリシュブールとロマネ・サン・ヴィヴァンの市場価格は生産量の違いはあるもののDRCを上回っており、ブルゴーニュにおいて絶対無比ともいえる座に君臨してきたDRCを脅かす唯一の存在になっているのかもしれません。

 ただドメーヌ・ルロワのワインは所有する畑全体の面積は25haと大きいものの、一つずつの畑は小さく、その上徹底した低収量(通常の造り手の半分)のため生産量は少なく、非常に高価なことから、そう簡単には入手し、味わえないことが唯一の難点と言えます。

なお、マダム・ルロワとドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ(DRC)との関係について、当ページの下に詳述しておりますので、ご覧ください。

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【マダム・ルロワとドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ(DRC)との関係】

 DRCの創業者ジャック・マリー・デュヴォー・ブロシェがロマネ・コンティを手に入れたのは1869年のことです。1874年に彼が死去すると二人の娘に分割相続され、更に時を経て1912年に子孫であるシャンポン家とド・ヴィレーヌ家が相続し、同時にドメーヌに名前を与え、商標登録をします。ドメー・ヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ(以下DRC)の誕生です。

 1930年代は世界大恐慌に不作続き、更にフィロキセラへの対抗費用も重なりブルゴーニュの生産者たちにとって苦難の時代でした。DRCオーナーの一人であったシャンポン家はドメーヌを手放すこととし、売却先として選んだのがオーセイ・デュレスにあるネゴシアン、メゾン・ルロワの三代目であるアンリ・ルロワ氏(マダム・ルロワの父)でした。

 1942年にヴィレーヌ家と共に共同経営者となったアンリ・ルロワは自分の持てる最良の技術、経営手腕をDRCに注ぎ、見事その栄光を蘇らせますが、1969年頃からヴィレーヌ家との意見の相違があり、年を追うごとにその溝は深まっていったようです。 また、後にアンリ・ルロワは自分の二人の娘、ポーリーヌ・ロック・ルロワとラルー・ビーズ・ルロワ(以下マダム・ルロワ)にDRCの持分を平等に分配します。ルロワ家としてDRCの共同経営権を確保したわけで、これは現在もそのまま継続しています。

 1974年、マダム・ルロワとオベール・ド・ヴィレーヌがそれぞれの家の代表者としてDRCの役員に就任し、選果台の先駆的導入やオーガニック栽培の導入等品質向上への積極的な取り組みを行いますが、マダム・ルロワは、DRCワインの品質に対し少なからず憂慮していたようで、二人の経営者が共同で事業をすることの難しさを悟ったマダム・ルロワは、DRCの共同経営者の立場にありながら1988年に自らのドメーヌであるドメーヌ・ルロワを立ち上げることになります。

 しかし、このドメーヌ・ルロワもファミリーと高島屋が出資した形態であり、自分の思う通りのワイン造りができないと考えたからでしょうか、更に自分だけが個人所有するドメーヌを作ります。これがドメーヌ・ドーヴネです。

 当時DRCの共同経営者であったはずのマダム・ルロワが、自らのドメーヌを興した事は、ド・ヴィレーヌ家や他の株主との関係をさらに悪化させ、ルロワ社のDRC商品の販売経路に関してトラブルが生じたことの責任を問われ、1992年DRC共同経営者の立場を追われました。

 この時、実姉であり監査役でもあったポーリーヌ・ロック・ルロワが、ヴィレーヌ側に一票を投じた事が決定的な要因となりましたが、姉とは幼い頃から、犬猿の仲だったと言われています。真実は知る由もありませんが、父のアンリから子供の時からティスティングの才能を認められて英才教育を受け、姉を差し置いてメゾン・ルロワ社の事業を継承し、DRCの代表取締役にも就いた妹への反発もあったかもしれません。 参考までにマダム・ルロワのあと、ルロワ家を代表してDRCの共同経営者の地位に就いたドメーヌ・プリュレ・ロックのオーナー、アンリ・フレデリック・ロックは、姉ポーリーヌの息子で、マダム・ルロワの甥にあたります。

 このような経緯を聞くとマダム・ルロワは、過去の因縁から打倒DRCを目論んでいるようにも見えますが、ラルー・ビーズ・ルロワは取締役の地位を追われたとは言え、DRCの大株主の一人であり、またその娘もDRCで働いているという記事もありますので、実際には良い意味での競争者として品質の向上を図っているのではないでしょうか。

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