〜Domaine Monthelie Douhairet Porcheret〜

伝説の女性と名醸造家の名前を冠した名門ドメーヌ

 

【ドメーヌ・モンテリ・ドゥエレ・ポルシュレ】


 モンテリ村に本拠を置く、ドメーヌ・モンテリ・ドゥエレ・ポルシュレは300年以上も前にモンテリ・ドゥエレ家により設立された歴史あるドメーヌなのですが、この名称になったのは1989年のことです。

 コート・ド・ボーヌ地区にあるワイン生産地モンテリは、ヴォルネイとムルソーの間に位置する村で、AOCの認定は1937年と遅く、栽培面積も100haほどで、特級畑もないことから地味なアペラシオンですから、ドメーヌ・モンテリ・ドゥエレ・ポルシュレの名前をご存知の方はかなりのブルゴーニュ通ですね。

 しかし、このドメーヌの名前をご存知ない方でも、アルマンド・ドゥエレ女史やアンドレ・ポルシュレ氏あるいはオスピス・ド・ボーヌの名前は聞かれたことがあるのではないでしょうか。

 

 中興の祖として現在のドメーヌの礎を築いた3代目当主アルマンド・ドゥエレ女史は、昼食では自社のモンテリを飲み、晩餐では成熟したヴォルネイ・シャンパンの古酒を飲んで死ぬまでドメーヌを切り回したという伝説の女性です。

 アルマンド・ドゥエレ女史とその妹のシャルロットが父からドメーヌ・モンテリ・ドゥエレと畑を継いだ時、ドメーヌは12haもの規模がありましたが、1970年代初めにシャルロットが自分の相続分を売却したため、ドメーヌの規模は半分になりましたが、残った6haの畑で懸命に醸造、瓶詰めを続けました。

 現在ドメーヌが所有している主要な畑は下表の通りです。モンテリの赤にはヴォルネイのエレガントさとオーセイ・デュレスのパワーにあふれた骨格があると言われますが、やはりヴォルネイやポマールの一級畑の方が人気があるようです。 特に、アルマンド・ドゥエレ女史が愛したヴォルネイの銘酒アン・シャンパンは逸品です。

 アルマンド・ドゥエレ女史は生涯独身を通したため、女史の生涯の友人であったアンドレ・ポルシュレ氏と養子縁組をし、1989年に二人の名をとって「ドメーヌ・モンテリ・ドゥエレ・ポルシュレ」が誕生します。

 このアンドレ・ポルシュレ氏は1976年〜1988年までオスピス・ド・ボーヌの醸造責任者を勤めた後、設立されたばかりのドメーヌ・ルロワのマダム・ルロワに請われて1988年〜1993年までドメーヌ・ルロワで醸造責任者を勤め、そして1994年〜1999年まで再びオスピス・ド・ボーヌの醸造責任者を勤めた方で、あのブルゴーニュの神様アンリ・ジャイエ氏とも並び称されるほどの伝説の名醸造家で、ここ半世紀で最も偉大なブルゴーニュの名士の一人という凄い方なのです。

 ポルシュレ氏が手がけたオスピス・ド・ボーヌは、多くのネゴシアンが(オスピス・ド・ボーヌであることを隠し、自社が造ったものとして)通常の自社ラベルで販売したという逸話が今に伝えられています。

 ドメーヌ・モンテリ・ドゥエレ・ポルシュレは6haほどの小規模ドメーヌであり、生産したワインの半分はフランス国内のレストランや愛好家で消費され、残りの半分も欧米中心に輸出されるので、日本でそのワインを見ることはそう多くはありません。

 2004年に共同経営者のアルマンド・ドゥエレが亡くなった後は、孫娘のカタルディナ・リッポ氏にドメーヌを譲り引退していますが、1937年生まれで今年80歳のアンドレ・ポルシュレ氏は現在も後進の指導をしながら精力的に作業に加わっているとのことです。

 最後に雑学豆知識を一つ。アンドレ・ポルシュレ氏はグラン・クリュ街道の下の飛び地の特級畑ミュジニーに僅か0.0156ha(約46.8坪)を所有し、そこに195本の葡萄樹を植え、年産40本のミュジニーを生産していることでも有名でしたが、2014年に畑を売却したようですので、今後は写真でエチケットを見ることすらできない超稀少な幻のミュジニーとなりそうです。

このミュジニーについて更に詳細を知りたい方は、当HPのカテゴリー「ブルゴーニュ銘醸畑詳細と区画図【ミュジニー】のページをご覧ください。

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