世界に冠たる白ワイン「モンラッシェ」を産む白の銘醸地

【ピュリニー・モンラッシェ〜Puligny-Montrachet〜】 ←生産者へ

  ピュリニー・モンラッシェは北に隣接するムルソー、南に隣接するシャサーニュ・モンラッシェとともにブルゴーニュの白の三大銘醸地です。

  この村が産する世界最高峰の白ワインが特級モンラッシェで、三銃士で有名な文豪デュマが、「脱帽し、跪いて飲むべし」と称えたことで有名です。モンラッシェ(Montrachet)とはフランス語の禿山の意味ですが、石灰岩と泥灰岩が交互に重なるこの禿山の土壌は、灌木や雑草が生えるだけの痩せた不毛の地でした。この土地から世界最高の白ワインが生まれるとは不思議な気がしますね。

  特級畑モンラッシェは、「ラッシェ山」の中腹に隣のシャサーニュ・モンラッシェにまたがって広がるクリマで、ピュリニー側が面積4.01ha、シャサーニュ側が面積3.98haです。二つのモンラッシェの違いは、ピュリニー側の区画が定冠詞のつかない「Montrachet」、シャサーニュ側の区画が定冠詞がつく「 Le Montrachet」となります。

  

 下の図表は、特級畑モンラッシェの区画図及びその周辺の特級畑の概略図を示したものです。これはブルゴーニュ・ラヴァーのバイブルとも言える「ブルゴーニュ大全」のデータを基に、店長がエクセルで描画したものですので、縮尺(畑の大きさ)は正確ではありませんが「偉大な畑モンラッシェ」とその周辺の秀逸なモンラッシェ特級畑群の理解の参考になると思います。

  このモンラッシェの斜面の上に広がる7.58haの特級畑が騎士の名を持つシュヴァリエ・モンラッシェで、造り手とヴィンテージによってはモンラッシェを凌駕する別格の白ワインです。更に、モンラッシェの下には「バタール・モンラッシェ」と「ビアンヴニュー・バタール・モンラッシェ」の二つの特級畑が連なり、ピュリニーの4つの特級畑はシャサーニュに接する南側の境界付近に一塊になって存在しています。これに対し、ピュリニーの17の一級畑はムルソーに接する村の北側に集中しており、4つの特級畑が禿山中腹の日当たり、斜面、土壌全てが恵まれた最高の場所に位置していることが分かります。

 特級畑モンラッシェを中心とする地図は前掲の通りですが、ピュリニー・モンラッシェ全体の葡萄畑の広域図を下に掲載します。こちらの地図も、店長がエクセルで描画したものですので、縮尺(畑の大きさ)は正確ではありませんが、ピュリニー・モンラッシェの17の一級銘醸畑の場所やモンラッシェを始めとする特級畑との位置関係等の理解の参考になると思います。

 この地図を見てお分かりのように、ピュリニー・モンラッシェ村の最南部にあるモンラッシェ特級群から、帯状に横に広がり、北に隣接するムルソー村の一級銘醸畑ペリエールに至る標高250m〜300mのベルト地帯がピュリニーの秀逸な一級畑となっています。また、村名格ながら特級畑バタール・モンラッシェとビアンヴニュー・バタール・モンラッシェの直下に隣接するレ・ザンセニエールは、特級のポテンシャルを持つ畑として有名です。

  ピュリニー・モンラッシェで最高峰の造り手を三名選ぶと「ドメーヌ・ルフレーヴ」、「エティエンヌ・ソゼ」、「ドメーヌ・ミシェル・コラン・ドレジェ」の名があげられます。

  ドメーヌ・ルフレーヴは、2006年デキャンタ誌の世界の白ワイン生産者10傑のNo.1に選出された「ピュリニーの至宝」と称えられる生産者です。

  ピュリニーの名手エティエンヌ・ソゼは上の概略図からも分かるように、モンラッシェには自分の畑は持っていませんが、モンラッシェ2番目の大きさで、かつ東西と南北に広がり、しかもDRCとコント・ラフォンの区画に隣接する最高立地の2区画(1.84ha)の持ち主で、250年の歴史を持つテナール男爵家から葡萄を購入して少量の素晴らしいモンラッシェを造っています。

  エティエンヌ・ソゼは相続問題で多くの畑を失ったことから一部自家以外の葡萄を購入しており、そのためドメーヌの看板は外しましたが、残った自家畑葡萄と信頼のおける栽培農家から購入した葡萄でこれまで以上の素晴らしい白ワインを造っています。

  最後のドメーヌ・ミッシェル・コラン・ドレジェは、著名な評論家ロバート・パーカー氏も5ツ星評価をする1878年から続く老舗ドメーヌです。日本ではこれまで馴染みが薄かったのですが、人気漫画「神の雫」の中で、ミシェル・コラン・ドレジェの「シュヴァリエ・モンラッシェ2000ヴィンテージ」が「第五の使徒」に選ばれたことから一気にその名が広まりました。なお、現在ミシェル・コラン・ドラジェは引退し、その畑は二人の息子に相続されており、兄のドメーヌ・フィリップ・コラン、弟のドメーヌ・ブリュノ・コランがその後を引き継いでいます。

 

 また、ピュリニー・モンラッシェの造り手ではありませんが、ポマールに本拠のあるドメーヌ・ジャン・マルク・ボワイヨもピュリニ・モンラッシェに多くの銘醸畑を所有しています。ドメーヌの当主ジャン・マルク・ボワイヨは、オリヴィエ・ルフレーヴの初代醸造長を務めた優れた白の造り手でしたが、ドメーヌ・エティエンヌ・ソゼの創設者の3人の孫の一人であったことから、1991年にエティエンヌ・ソゼの虎の子の畑の三分の一の相続分として、バタール・モンラッシェ、一級コンベット、シャン・カネ、ルフェールの一部と一級トリフィエールの全てを相続していますので、これら銘醸畑から素晴らしい白ワインを造っています。

 更に、シャサーニュの地で約500年前からワイン造りを行ってきた名家カリヨン家の当主でシャサーニュ・モンラッシェ屈指の白ワインの造り手とされたルイ・カリヨンは、2009年ヴィンテージを最後に引退していますが、2010年からは、兄のドメーヌ・ジャック・カリヨン、弟のドメーヌ・フランソワ・カリヨンが畑を分割相続し、秀逸な白ワインを造っています。

最後に眉唾ものの小話を一つご紹介します。

 モンラッシェ周辺にはモンラッシェ特級畑群のシュヴァリエ・モンラッシェ、バタール・モンラッシェ、ビァンヴニュー・バタール・モンラッシェ、クリオ・バタール・モンラッシェと最高の一級畑レ・ピュセルがあり、これらの畑名の由来については次のような昔話があります。

 『12世紀、第二次十字軍が派遣された時代に、モンラッシェ(禿山)の領主の騎士(シュヴァリエ)になっていた息子が美しい乙女(ピュセル)と出会いました。騎士はその乙女のあまりの美しさに魅かれ、ついに私生児(バタール)が生まれます。その後、領主の一人息子であった騎士は戦死し、跡継ぎとしてこの私生児を迎えることにしました。そのとき、領民たちは跡継ぎができたことを喜び、「ビアンヴニュ!(ようこそ)」と迎え、私生児(バタール)は幼かったので泣いて(クリオ)いた。』

 いかがですか?ジャスパー・モリス氏もこれは眉唾ものの話としてはいますが、その著書の中でこの昔話に触れています。ワインの検定試験等の際、難しい畑名とその位置を覚えるにはいいのではないでしょうか。

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