世界中のワイン愛好家が憧れる至高のドメーヌ

 最上のテロワールと最高の栽培・醸造技術を持つ世界最高峰の造り手

 【ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ-コンティ】

  〜Domaine de La Romanee-Conti〜


 

 ロマネ・コンティが世界で最も魅惑的なワインかつ高額で取引されることは、ワイン愛好家ではない方でもご存じでしょう。この世界で最も有名な特級畑ロマネ・コンティの名は同時に造り手のドメーヌの名称でもあり、ブルゴーニュでは多くの人が畏敬の念をもってドメーヌの中のドメーヌを意味する「ザ・ドメーヌ」あるいは「DRC]と呼んでいます。

 現在DRCが産み出すのは、赤のロマネ・コンティ、ラ・ターシュ、リシュブール、ロマネ・サン・ヴィヴァン、グラン・ゼシェゾー、エシェゾー、コルトンと、最高峰白ワインのモンラッシェの8つの特級ワインです。これらのワイン群はいずれもブルーゴーニュは勿論、世界で最も華麗かつ洗練の極みとも言える逸品ですが、これら偉大なワインは畑の持つ最上のテロワールだけでなく多くの人間の長年の協働の継続によって生み出されたものです。

 ブルゴーニュのヴィンテージによる不安定な品質はしばしば言われることですが、DRCに限っては収穫年を問わず、偉大なブルゴーニュを保証するものとみなされているのは、DRCが葡萄畑の内外で真摯な、そして時として高価につく努力を惜しまなかったことにあります。

 DRCのワインはしばしば「飲むことよりも語られることの多いワイン」とも言われます。下の写真の通り、美術出版社発行のワイナート49号(2009年3月発刊)には、DRC特集として表紙を飾った他、16ページにもわたってその産み出されるワインの畑仕事や醸造、ドメーヌの歴史、オーナーの哲学等が詳細に紹介されており、DRCがビオディナミの採用等で最上のテロワールがもてる力を更に引き出すべく進化し続けていることが分かります。

 

DRCが所有する畑は下の一覧表の通りですが、次の点にご注意下さい。

(1)DRCが実際に所有しているのはエシェゾーが4.67ha中の僅か0.425ha、グラン・ゼシェゾーは3.53ha中の3.116haです。減少分は1988年にロマネ・サン・ヴィヴァンのマレ・モンジェ家の区画を購入する資金捻出のため、アシュランス・デュ・クレディ・ミュテュエル・ヴィに売却しました。しかし今もDRCは新所有者と分益耕作契約をしているのでDRCのラベルで同量のワインを造っています。

(2)コルトンの三つの特級畑はプランス・ド・メロード家が所有する畑を30年間のフェルマージュ契約したもので、2009年ヴィンテージからDRCのコルトンとしてリリースされています。

(3)ヴォーヌ・ロマネ一級と特級バタール・モンラッシェにも小区画を所有していますが、自家用もしくはネゴシアンに売られ、自社では瓶詰めしていません。

 さて、ここからは、DRCの歴史的経緯について記したいと思います。長くなりますが、ワイン雑学知識としてお付き合い下さい。

 ロマネ・コンティという立派な畑であるが故に、所有者はその名をドメーヌ名に選んだのですが、実は1967年にフランス政府は「ドメーヌが一つの畑のワインしか造っていない場合を除き、葡萄畑の名称をドメーヌ固有のものとして使用することはできない」と決定します。

 この規則に当てはめると、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティは、ロマネ・コンティ以外にもラ・ターシュ、リシュブール、モンラッシェ等複数の珠玉の畑からワインを造っていますので、ロマネ・コンティの名をドメーヌ名に使うことはできません。

 実際にヴォルネイの有名な生産者ドメーヌ・ド・ラ・プスドールは、モノポールの秀逸な一級畑クロ・ド・ラ・プス・ドールの名前をドメーヌ名としていましたが、1967年以降は禁止されたため、ドメーヌ名「Domaine de la Pousse d'Or」はそのまま残し、畑名の方を「クロ・ド・ラ・ブス・ドール(Clos de la Bousse d'Or)」と代えています。

 ドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティ(以下DRC)だけが唯一例外とされたわけですが、この理由はこのドメーヌの王権に縁のある長い歴史に起因しているのです。DRCの歴史は世界最高の畑ロマネ・コンティの歴史と重なりますので、まずロマネ・コンティの初源をたどってみたいと思います。

1.特級畑ロマネ・コンティの歴史

 「ヴォーヌ・ロマネ村=ロマネ・コンティ」とすぐに連想しがちですが、中世の頃のヴォーヌ・ロマネ一帯は、西暦890年頃に設立されたサン・ヴィヴァン修道院が所有していました。

 歴史に残るサン・ヴィヴァン修道院の土地所有の最初の記録は、1131年のブルゴーニュ侯ユーグ二世の証書で、そこには「フラジェ村とヴォーヌ村のユーグ侯に帰属する全ての原野、森林、未耕作地をサン・ヴィヴァン修道院に譲渡する」と書かれています。

1131年の記録の後、サン・ヴィヴァン修道院は1241年、1276年、1285年の複数回にわたり土地を寄進されています。この時に寄進された畑が具体的にどこであるかは、ブルゴーニュ公国が土地所有課税を課していなかったため、不明ですが、1512年の記録に寄進された次の4つの葡萄畑の名称が明記されています。

(1)クルー・デ・サンク・ジュルノー[Cloux des cinq journaux]

(2)クルー・デュ・カトル・ジュルノー

(3)クルー・デュ・モワタン

(4)クルー・デュ・ヌフ・ジュルノー

 四つの畑の中で、最初のクルー・デ・サンク・ジュルノーが後に隣接する小区画を併合して現在のロマネ・コンティになるもので、後の三つが現在のロマネ・サン・ヴィヴァンの大半を占める畑となります。

 

 ロマネ・コンティの元となった区画は[Cloux des cinq journaux](クルー・デ・サンク・ジュルノー)であることは前述の通りですが、参考までにこの ジュルノー[journaux]は畑の広さを表す古い単位で[1journaux]は約0.34ha、[ cinq ]はフランス語の数字の「5」です。従って、ロマネ・コンティは、当初は5ジュルノー(約1.7ha)の畑だったのです。

 1584年2月にサン・ヴィヴァン修道院はクルー・デ・サンク・ジュルノー(現在のロマネ・コンティ)をディジョンの王室管理人クロード・クザンに売却します。その後、この畑はクザンの未亡人と甥、前ディジョン市長ヴノー、その娘婿のクローネンブールへと所有者が移転します。このクローネンブールが所有者となって以降、この畑がロマネと呼ばれるようになりました。

 18世紀に入るとコルク栓による熟成が可能となり、コート・ド・ニュイのワインの評価が上がり、中でもロマネの評価が最も高く、クローネンブール家は負債の返済のため、1760年にこのロマネをコンティ公ルイ・フランソワ・ブルボンに売却します。この時フランス国王ルイ15世の愛妾ポンパドール夫人との間で激しい争奪戦があったことはご存知の方も多いと思います。この後、ロマネはコンティ公個人のためだけに供される幻のワインとなります。

2.ドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティの成立

 コンティ公の息子ジョセフがロマネの畑を相続しますが、フランス革命により逮捕、ロマネは没収され、1794年に競売にかけられます。この頃、ロマネはロマネ・コンティと呼ばれるようになります。

 その後、ロマネ・コンティの所有者はドフェル、コワロー、ウーヴラール、ギュイモへと次々に移り変わります。そしてギュイモは1869年11月25日にサントネイ村のネゴシアンで19世紀後半の市場の低迷の中で大成功を収めたジャック・マリー・デュヴォー・ブロシェに売却します。

 1874年にジャック・マリー・デュヴォー・ブロシェが死去すると、彼の娘であるクロディーヌとアンリエットがロマネ・コンティの畑を分割相続します。その後二人の間で畑の交換があり、アンリエットが畑を単独所有しますが、アンリエッタには相続人がおらず、彼女が死去した後は、クロディーヌの二人の娘であるガブリエルとセシルの共同所有となります。 セシルは3人の息子にそれを譲渡しますが、彼らは1912年10月にガブリエルの息子ジャック・シャンポンとその娘のマリー・ドミニク・ゴーダン・ド・ヴィレーヌに持分を売却します。この結果1912年10月以降、ロマネ・コンティはシャンポン家とド・ヴィレーヌ家が共同所有することとなります。

 また、ドメーヌの経営は1911年にマリーの夫、エドモン・ゴーダン・ド・ヴィレーヌが任されることになり、1912年彼はドメーヌに名前を与え、商標登録します。ここにドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティが誕生したのです。

3.ヴィレーヌ家とルロワ家の共同経営体制

 1930年代は世界大恐慌に不作やフィロキセラ被害が重なり、ブルゴーニュの生産者たちにとって苦難の時代でした。この時苦境に陥ったオーナーの一人であるシャンポン家はドメーヌの自分の持ち分をオーセイ・デュレスにあるネゴシアンの三代目であるアンリ・ルロワ(マダム・ルロワの父)に売却します。

 1942年にヴィレーヌ家と共に共同経営者となったアンリ・ルロワは自分の持てる最良の技術、経営手腕をDRCに注ぎ、見事その栄光を蘇らせますが、1969年頃からヴィレーヌ家との意見の相違があり、年を追うごとにその溝は深まっていきます。

 アンリ・ルロワはルロワ家としてDRCの共同経営権を確保するために自分の二人の娘、ポーリーヌ・ロック・ルロワとラルー・ビーズ・ルロワ(以下マダム・ルロワ)にDRCの持分を平等に分配します。

 1974年、マダム・ルロワとオベール・ド・ヴィレーヌがそれぞれの家の代表者としてDRCの役員に就任し、選果台の先駆的導入やオーガニック栽培の導入等品質向上への積極的な取り組みを行いますが、マダム・ルロワは、DRCワインの品質に対し少なからず憂慮していたようで、二人の経営者が共同で事業をすることの難しさを悟ったマダム・ルロワは、DRCの共同経営者の立場にありながら1988年に自らのドメーヌであるドメーヌ・ルロワ、更に自身が個人所有するドメーヌ・ドーヴネを立ち上げることになります。

 当時DRCの共同経営者であったはずのマダム・ルロワが、自らのドメーヌを興した事は、ド・ヴィレーヌ家や他の株主との関係をさらに悪化させ、米国でのDRC商品の販売経路に関してトラブルが生じたことの責任を問われ、1992年DRC共同経営者の立場を追われました。

 この時、実姉であり監査役でもあったポーリーヌ・ロック・ルロワが、ヴィレーヌ側に一票を投じた事が決定的な要因となりましたが、姉とは幼い頃から、犬猿の仲だったと言われています。真実は知る由もありませんが、父のアンリから子供の時からティスティングの才能を認められて英才教育を受け、姉を差し置いてメゾン・ルロワ社の事業を継承し、DRCの代表取締役にも就いた妹への反発もあったかもしれません。

 マダム・ルロワがDRCを去った後、ルロワ家を代表してDRCの共同経営者の地位に就いたのが、姉ポーリーヌの長男シャルル・ロックでしたが、就任後僅か2ヶ月後に交通事故死し、弟のアンリ・フレデリック・ロックが後を継ぎ、現在に至っています。ご承知の通り、アンリ・フレデリック・ロックはドメーヌ・プリューレ・ロックのオーナーで、マダム・ルロワの姉ポーリーヌの息子ですから、マダム・ルロワの甥にあたります。

 このような経緯を聞くとマダム・ルロワは、過去の因縁から打倒DRCを目論んでいるようにも見えますが、ラルー・ビーズ・ルロワは取締役の地位を追われたとは言え、DRCの大株主の一人であり、またその娘もDRCで働いているそうなので、実際には良い意味での競争者として品質の向上を図っているのではないでしょうか。今後のDRCとドメーヌ・ルロワの超一流生産者の切磋琢磨による競い合いが楽しみです。

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